『ユニップ解説』 ユニップの「紙のない雑誌」(その2)


UPP通信(現在のユニップ通信)が1966年から4年間毎月1回45号まで発行されましたが、今回その当時の時代的背景を探ってみます。

【日本・日本人がその行方・生き方を模索した時代】

1965年に戦後20年、1968年に明治100年を迎えました。この区切りのよい時代の前後から、ミリタリズム崩壊後の新しいナショナリズムと西欧的デモクラシーの融合が模索され、日本の国際的役割の国民的自覚が芽生えてきました。この時代の主な社会的出来事を拾ってみましたが、この時期を戦後日本文化の青春期と呼べば、ユニップが創立満30年を迎えた現在は、世紀末の文化疲労期と考えることができるでしょう。

●南北ベトナムの戦争にアメリカが参加して、この時期を通じて戦いは泥沼化し、結局1970年代になってアメリカの敗北で終わったが、日本は米軍の特需で、その後の経済の高度成長を加速させる結果となった。

●1966年に始まる早稲田紛争の後、学園紛争は全国的に広がり、東大の紛争に警察機動隊が導入されて'69年に東大安田講堂が「落城」した。

●1967年に社会・共産党が押す美濃部候補が当選し、革新都政が成立した。その他神奈川、大阪、京都を含め10人の革新知事が生まれた。
これらの革新自治体の出現が圧力となって、福祉行政の充実強化が促進された反面、放漫財政の弊害などで、1970年代に入り情勢は変わった。
1960年代後半には水俣病、光化学スモッグ、ヘドロなどの公害・環境対策が大きな政治・社会問題になり、1971年5月に環境庁が設置された。

●1970年11月に作家の三島由紀夫が楯の会の4人とともに東京市が谷の陸上自衛隊のバルコニーから憲法改正のクーデターを訴え、割腹自殺した。この事件はユニップの創始者の一人シュミット佳子(故人)さんがUPP通信の40号に「死までを演出した男、三島事件に思う」の題の文章を寄せた。なお1968年に川端康成が、ノーベル文学賞を受賞した。

●1970年3月には、赤軍派9名が日航機「よど号」をハイジャックし、乗客を救うための超法規によって、犯人達は北朝鮮へ入国した。

●1969年7月米国の有人宇宙船アポロ11号が月面着陸した。この時期に沖縄返還が具体化し、日米通商交渉も、この頃から始まっている。

●1966年の海外旅行者数は約21万人(現在は千五百万人を超えている)。その頃の郵便料金葉書7円、封書15円、1970年の週刊誌80円、理髪600円。
このような時代環境のなかでユニップの「紙のない雑誌」が始められたのですが、その後28年を経た1994年に会員代表が書いた文章に、次のような一節があります。

 『(ユニップの創設の動機は)…生き甲斐を探しあぐねている者、人間らしいあたたかさを求めている者------、世界戦争の不安までうづまく中で思いたった「救世」の切なる願いからでありました。
時代環境や情報システムなどまるで変わったいま、「紙のない雑誌」をこれからどうするかを、ジックリ考えたいと思います。』(以下次号へ)